牛尾治朗対談

神奈川県横須賀市に陶房を構え 、2009年陶芸家としてデビューした岡崎裕子さん。
出自は、小説『華麗なる一族』のモデルとされる岡崎家である。
その後意欲的に創作活動に取り組むが、 第2子の授乳期に乳がんを罹患、約1年間の治療を経て今年2月、復帰後初の個展を開き好評を博す。
現在は、仕事と子育てを両立しながら、「がんと言われても動揺しない社会」を目指し
産官民学を巻き込んだ社会活動にも努められている。

岡崎 裕子(陶芸家)
陶芸家の道を歩んで10年 仕事、出産、病気を経て得た絆

牛尾
お越しいただきまして、ありがとうございます。岡崎さんにこの対談に出ていただくのは2回めになりますが、前回が2010年8月号でしたから、9年ぶりですね。

岡崎
また呼んでいただいて光栄です。牛尾さんとは代々のご縁があって、いつも大変お世話になっています。

牛尾
山崎豊子の『華麗なる一族』は、岡崎家がモデルとなっていると言われていますが、あなたは登場したのでしたっけ?

岡崎
そう言われているようですね。私は登場しておりませんが、岡崎家の祖は神戸岡崎銀行を設立、父は神戸で生まれ育ち、5人兄弟の長男ですので、設定は似ています。志摩観光ホテルで毎年新年を祝っていたことも同じだそうです。

牛尾
今日は、この9年間で変わったことを中心にお話を伺いたいのですが、独立されて何年になりますか。

岡崎
2007年に神奈川県横須賀市芦名に自宅兼アトリエを持って、初めて広尾で個展を開いたのが2009年ですから、前回この対談に呼んでいただいたのは、陶芸家としてスタートして間もない頃でした。

牛尾
ご結婚されたのも独立したのと同時期でしたね。その後、お子さんが2人生まれて、おいくつになられましたか。

岡崎
上の子は8歳、下の子は4歳になりました。我が家の食に関しては「地産地消」という言葉につきます。子どもたちは、ほとんど三浦野菜で育っています。あのエリアの新鮮な野菜のおいしさに、子どもたちも目覚めてしまっているのですよ。近くに無人の、昔ながらの100円とか150円とかお金を入れて、置いてある野菜を持って帰るような直売所がたくさんあるのです。「あっ、今日はオクラがあるよ」「今晩食べようか」などと言って、子どもたちと一緒に買って帰って、ごま和えにして食べたり。特に今の時期は、モロヘイヤやトウモロコシ、枝豆など、買ってきた旬の野菜をさっと茹でるだけでご馳走になるので、とても楽です(笑)。

私の住んでいる地域は、暮らしのナチュラルさを大事にされている方や、お子さんを自然に触れられる環境で育てることを意識している方が多いです。「お味噌を作りましょう」と友人たちで声掛けがあって、みんなで大豆を茹でるところから始めたり、「自宅で作れる玄米塩こうじのキットを取り寄せようと思うんだけど、一緒に頼みましょうか?」「じゃあ、うちも1個」とお願いしたり。そういうことがしょっちゅうあります。

牛尾
あの辺りは海の幸も豊富ですね。

岡崎
うちは佐島の漁港のすぐ近くなので、ワカメやタコ、ヒジキなど、時期になると、漁師さんのところに直接買いに行ったりします。いい魚屋さんもいっぱいありますし、お隣さんが「アジを釣り過ぎちゃったから、おすそわけ」と言って、釣ってきた魚を持って来てくださることもあります。それを3枚におろしてフライにして食べたり(笑)。

横須賀というと、軍港の街というイメージを持っていらっしゃる方が多いと思うのですが、エリアによって雰囲気が全く違うのです。うちがある芦名や、秋谷、佐島などの横須賀の西エリアは葉山に隣接していて、そちらはわりと、別荘をお持ちの方や東京から移住されているお宅があって、食の意識と感度が高い方が多いなぁと思います。

牛尾
おいしいお店も多いでしょう。

岡崎
そうですね。でも、我が家はほとんど外食はしませんね。子どもが小さいので、家族で外にご飯を食べに行くことのほうが負担で、それより家でちゃちゃっと作って食べたほうがいいわ、という感じです(笑)。

宮内対談

評論家として、テレビやラジオ、講演などで活躍され、『公益財団法人大宅壮一文庫』理事長も務める大宅映子さん。
これまで多くの政府審議会の委員を歴任し、日本の構造改革にも関ってこられた。
1978年から始めたマスコミ活動では、国際問題・国内政治経済から、ご自身の幼少期や2人のお嬢さんを育てられた経験を生かし、食文化・子育てに至るまで、多分野にわたり情報を発信。
広い視野と同時に、飾らない人柄とわかりやすい言葉で繰り出されるコメントが、好評を博している。

大宅 映子(評論家・公益財団法人大宅壮一文庫理事長)
母として、女性として、令和の時代をどう輝いて生きるか

宮内
ようこそお越しくださいました。

大宅
お招きいただきまして、ありがとうございます。

宮内
父上の大宅壮一さんは、一時代を画した社会評論家として大変活躍されていました。亡くなられてどれくらいになるでしょうか。

大宅
父は1900年生まれで、1970年に満70歳で亡くなりました。その当時の平均寿命弟子た。元々「太く短く生きたい」と本人は言っていましたから、その通りの人生だったのではないでしょうか。

宮内
お母さまはどのような方だったのですか。

大宅
母の昌は1906年、富山県魚津市の生まれで、県内で女子師範学校を出てから小学校の教師をしていました。7年間教師を務めて辞めた時に、ちょうど父が『婦人公論』の文化講演会で富山を訪れて、母は友達に誘われて出かけて行ったのです。そうしたら、途中で「講演会終了後、地元の職業婦人を集めて座談会を開くので、出席されたし」と書かれた紙が回ってきたと。後で聞いたら、母はその時、顔におできができて絆創膏を貼っていたのですが、美人でしたから、父が壇上から見初めて、あの絆創膏を呼ぶようにと、お付きの人に言ったそうです(笑)。2人はその翌月に結婚したのですよ。

父はなんでも論理的に考える人でした。その父曰く、「富山の薬売りは薬を売りに全国を回っていて家にはほとんどいなかった。その留守を1人で守っていた、富山の女性は強い」と。しかも母は丙午(ひのえうま)の生まれですから、「丙午の富山の女性は強いに決まっている」と言っていたようです(笑)。

宮内
そのDNAが娘の映子さんにも入っているわけですね(笑)。

大宅
私にも入っています(笑)。

宮内
ごきょうだいは何人いらっしゃるのですか。

大宅
私は大宅壮一家1男3女の末っ子なのです。1番上の兄とは9歳、2番目の長姉とは8歳、3番目の次姉とは5歳離れていまして、男・女・女ときて、両親がもう1人男の子がほしいと思っていたところに生まれたのが私でした。そう言うとひがんでいるように思われるかもしれませんが、期待されていなかった分、ある意味放っておかれましたから、私には生まれた時から自由があった。こんなラッキーなことはないです。お陰で、なんでも1人でやる子に育ちました。姉2人は母に似て美少女でしたし、いいお嬢さんをやらなきゃいけなかった。でも私だけ「1番下のお嬢さんは先生にそっくりですね」と、家に来るお客さん10人が10人言うわけです。そのたびに私はブスだと言われているようで、ふくれて奥の部屋に入っていました。なんであんなに父親に似ていると言われなきゃいけないのかと思う一方で、私はブスで玉の輿にのることなんてないから、自分の人生は自分で切り開いて生きていこうと考えていました。

それで、高校を卒業してから、アメリカに留学しようと思ったのです。あの頃のアメリカは、日本にないものがなんでもあった。車にしてもファッションにしてもそうですし、アメリカのすべてに憧れていたのです。でも、留学させてほしいと父にお願いしたら、「アメリカに骨をうずめる気なら行ってもよろしい。だがそうじゃないのなら、日本で学ぶことはまだたくさんあるだろう」と言われて、行かせてもらえませんでした。ガッカリしましたが、確かにそれもごもっともだなと。あの時に行っていたら、多分そのまま帰ってこずに、今頃アメリカにいるでしょうね(笑)。