宮内対談

評論家として、テレビやラジオ、講演などで活躍され、『公益財団法人大宅壮一文庫』理事長も務める大宅映子さん。
これまで多くの政府審議会の委員を歴任し、日本の構造改革にも関ってこられた。
1978年から始めたマスコミ活動では、国際問題・国内政治経済から、ご自身の幼少期や2人のお嬢さんを育てられた経験を生かし、食文化・子育てに至るまで、多分野にわたり情報を発信。
広い視野と同時に、飾らない人柄とわかりやすい言葉で繰り出されるコメントが、好評を博している。

大宅 映子(評論家・公益財団法人大宅壮一文庫理事長)
母として、女性として、令和の時代をどう輝いて生きるか

宮内
ようこそお越しくださいました。

大宅
お招きいただきまして、ありがとうございます。

宮内
父上の大宅壮一さんは、一時代を画した社会評論家として大変活躍されていました。亡くなられてどれくらいになるでしょうか。

大宅
父は1900年生まれで、1970年に満70歳で亡くなりました。その当時の平均寿命弟子た。元々「太く短く生きたい」と本人は言っていましたから、その通りの人生だったのではないでしょうか。

宮内
お母さまはどのような方だったのですか。

大宅
母の昌は1906年、富山県魚津市の生まれで、県内で女子師範学校を出てから小学校の教師をしていました。7年間教師を務めて辞めた時に、ちょうど父が『婦人公論』の文化講演会で富山を訪れて、母は友達に誘われて出かけて行ったのです。そうしたら、途中で「講演会終了後、地元の職業婦人を集めて座談会を開くので、出席されたし」と書かれた紙が回ってきたと。後で聞いたら、母はその時、顔におできができて絆創膏を貼っていたのですが、美人でしたから、父が壇上から見初めて、あの絆創膏を呼ぶようにと、お付きの人に言ったそうです(笑)。2人はその翌月に結婚したのですよ。

父はなんでも論理的に考える人でした。その父曰く、「富山の薬売りは薬を売りに全国を回っていて家にはほとんどいなかった。その留守を1人で守っていた、富山の女性は強い」と。しかも母は丙午(ひのえうま)の生まれですから、「丙午の富山の女性は強いに決まっている」と言っていたようです(笑)。

宮内
そのDNAが娘の映子さんにも入っているわけですね(笑)。

大宅
私にも入っています(笑)。

宮内
ごきょうだいは何人いらっしゃるのですか。

大宅
私は大宅壮一家1男3女の末っ子なのです。1番上の兄とは9歳、2番目の長姉とは8歳、3番目の次姉とは5歳離れていまして、男・女・女ときて、両親がもう1人男の子がほしいと思っていたところに生まれたのが私でした。そう言うとひがんでいるように思われるかもしれませんが、期待されていなかった分、ある意味放っておかれましたから、私には生まれた時から自由があった。こんなラッキーなことはないです。お陰で、なんでも1人でやる子に育ちました。姉2人は母に似て美少女でしたし、いいお嬢さんをやらなきゃいけなかった。でも私だけ「1番下のお嬢さんは先生にそっくりですね」と、家に来るお客さん10人が10人言うわけです。そのたびに私はブスだと言われているようで、ふくれて奥の部屋に入っていました。なんであんなに父親に似ていると言われなきゃいけないのかと思う一方で、私はブスで玉の輿にのることなんてないから、自分の人生は自分で切り開いて生きていこうと考えていました。

それで、高校を卒業してから、アメリカに留学しようと思ったのです。あの頃のアメリカは、日本にないものがなんでもあった。車にしてもファッションにしてもそうですし、アメリカのすべてに憧れていたのです。でも、留学させてほしいと父にお願いしたら、「アメリカに骨をうずめる気なら行ってもよろしい。だがそうじゃないのなら、日本で学ぶことはまだたくさんあるだろう」と言われて、行かせてもらえませんでした。ガッカリしましたが、確かにそれもごもっともだなと。あの時に行っていたら、多分そのまま帰ってこずに、今頃アメリカにいるでしょうね(笑)。