茂木友三郎対談


『江戸東京博物館』設立の構想時から携わり、1998年から3代目館長を18年間務め、現在は名誉館長、『徳川林政史研究所』所長も務められている竹内 誠さん。
希望する大学に入れず、挫折感にさいなまれていた浪人時代、自身の進むべき道を切り拓くことになる1冊の歴史本『田沼時代』と出合う。
その後、独自の視点から寛政改革の全貌を明らかにしたり、江戸の町の研究を進める傍ら、好きが高じて『相撲教習所』の講師も務める。
「研究から得られる醍醐味がたまらない」と、歴史学に没頭する日々を楽しまれている。

竹内 誠(江戸東京博物館名誉館長・徳川林政史研究所所長)
1冊の本に導かれ歴史学者の道へ 江戸の町と相撲の研究、未だ道半ば

茂木
ようこそお越しくださいました。

竹内
お招きいただきまして、ありがとうございます。

茂木
竹内さんは私と同じ上野高校のご出身で、1年先輩になるのですね。

竹内
そうですね。私は1933年生まれで、今ちょうど85歳です。

茂木
当時のお住まいはどちらでしたか。

竹内
下町の人形町に住んでいました。戦争が終わった翌年、1946年4月に旧制上野中学に入学して、水天宮から都電に乗って上野の学校に通っていました。上野駅前には、地下鉄に乗るための地下道がありましたが、地下道には戦災で焼け出された人たちが大勢寝起きしていて、その中を毎日通っていました。上野駅から広小路一帯には、通常のルートでは手に入らないようなものを売る闇市があって、たくさんの人が集まっていたことを覚えています。

茂木
あの頃はまだ上野公園の中に焼け出された人たちの住宅がありましたね。

竹内
終戦直後で治安も乱れていて、上野には、日本の矛盾が凝縮しているような、戦後の縮図がありました。その中を6年間通ったことは、私の人生において大きな意味を持っていると思います。

茂木
おっしゃる通り、それは大変な経験をされたと思いますよ。

竹内
私はなるべくものを捨てずに取っておく性分で、書斎が「ごみ部屋」のようになっているのですが(笑)、『江戸東京博物館』(墨田区横網)の館長をしていた時、偶然、学生時代の毎月の定期券が残っているのを見つけたのです。職場でその話をしたら、それは貴重品だということで、東京都交通局の展覧会を開催した折に、「館長が持っていたあれを出しましょう」と言われて、出陳しました。高校の時に付けていた校章バッジなども取ってあるのですよ。

茂木
70年も前のものを今も取ってあるというのは、すごいですね。

竹内
1949年でしたか、戦争で傷ついた子どもたちの心を癒そうということで、タイから上野動物園にゾウの「はな子」さんが贈られてきたでしょう。その頃は、学校と動物園との間に簡単な柵はありましたが、すき間から自由に行き来できたので、動物園の中を通ってよく帰校しました。猛獣は戦争中に殺されてしまったので、危険性はないということで動物園も開放的だったのでしょうね。

茂木
私が1950年に新制高校に入った時は、動物園には入れてもらえませんでしたが、野球をしていてボールが園内に入ると、中へ取りに行っていましたよ(笑)。

竹内
隣り合わせですから、動物の鳴き声が授業中に聞こえることもありました(笑)。

茂木
人形町の辺りは焼けなかったのですか。

竹内
幸運にも私の家の一画だけは焼けなかったのです。

両親はともに長野県人で、私は縁故疎開で千曲(ちくま)市に行っていたので、1945年3月10日の大空襲の時は東京にいませんでした。空襲の時、実家の周辺の人たちはみんな明治座に避難することになっていたのですが、偶然にも、あの時はその途中から火の手が上がって明治座へ行くことができなくなったので、私の家族は止むを得ず逆の方向にある小学校へ逃げた。それで助かったのです。

茂木
明治座は焼けてしまいましたね。

竹内
明治座では犠牲者が大勢出ました。そこへ避難していたら、私の家族も助からなかったかもしれません。