牛尾治朗対談

セイノーホールディングス社長、田口義隆さん。
一九三〇年に祖父の田口利八さんが創業し、今年で八十八年。
「カンガルー便」でおなじみの路線トラックで日本全国の企業間物流のパイオニアとして輸送業を核に本拠地の岐阜県をはじめ全国で様々な事業を行っている。
CS「お客様満足」の継続的提供のためにはES「従業員満足」が基盤となるという創業者から受け継ぐ経営理念を決定時の判断軸に置き、事業を展開されているという。

田口 義隆(セイノーホールディングス(株)代表取締役社長)
会社を発展させ、社員を幸福にする

牛尾
ようこそお越しくださいました。

田口
お招きいただきまして、ありがとうございます。

牛尾
あなたが社長になられて何年になるのですか。

田口
私が叔父の田口義嘉壽(よしかず)(一九三八~二〇一六)から社長を引き継いだのは十五年前の二〇〇三年、四十二歳の時でした。

牛尾
創業はいつですか。

田口
祖父の田口利八(りはち)(一九〇七~八二)が、一九三〇年に岐阜県益田郡萩原町(現・下呂市)で田口自動車を創業しまして、今年で八十八年になります。月賦で購入した中古トラック一台で運輸業を始めました。その後、一九三三年に場所を現在の本社所在地である大垣市に移し、「美濃の西」ということで、四一年に西濃トラック運輸株式会社を設立しました。しかし、四二年に戦時陸運統制令により集約合同され、終戦後の四六年に合同会社より分散する形で水都産業株式会社を設立して事業を再興しまして、四八年に再び社名を西濃トラック運輸株式会社に変更し、次いで五五年に西濃運輸株式会社に商号変更したということです。

牛尾
創業者の利八さんが、日本の中央部に位置する大垣に拠点を構えたという、先見の明は素晴らしいですね。

田口
利八は長野県の出身なのですが、岐阜県で商売を始めて、その三年後に、さらなる成長を目指し、他の都市部への進出を狙って大垣市に拠点を移したわけです。その理由は三つありました。一つは平野であること、二つ目に水が豊かであること、三つ目が交通の要衝であること。水があるところには工場ができる、すると、運ぶ荷物が自然と発生するだろうと読んだわけです。萩原町の頃は主にダムの部材などを運んでいましたが、大垣市に来てからは加工製品を運ぶようになりました。大垣は日本の中心にあり、利八が目指す全国進出にちょうど良かったのです。

そこで利八が取り組んだのは長距離定期貨物便、今で言う特別積合せ貨物運送(貨物自動車運送事業法に規定された、自動車を用いた貨物運送の一形態。地域ごとに仕分けを行う拠点を用意し、拠点間を結ぶ定期的な運送便に貨物を積み合せて運送する方法)でした。当時の貨物輸送の主流は国鉄(現・JR貨物)による鉄道貨物輸送で、一部の中距離路線便を地場の会社、もしくは日本通運さんが行っていました。そこに利八は着目し、近い将来、高速道路網が整備されて自動車の時代になり、物流の世界も長距離トラック輸送へと変わるだろうと判断したわけです。そこで利八は、当時の運輸省を訪ねて免許を申請し、前例がないことだったのでなかなか認められなかったようですが、二十一日間通いつめて認可を手にしました。

そうして、大垣~名古屋を皮切りに長距離トラック輸送をスタートさせ、大阪、東京へ、その後もさらに東西南北へと路線網を伸ばし、一九七〇年に青森~大分、青森~熊本の長大路線網を確立させました。そして、 翌七一年に名証に上場し、七二年に東証一部に上場しました。

牛尾
あなたのお父様が社長をされたのはいつでしたか。

田口
父の利夫(一九三二~九八)が社長に就任したのは、祖父が亡くなる一年前の一九八一年です。そして、八七年に父の弟の義嘉壽がそのあとを引き継ぎました。

牛尾
私がJC(日本青年会議所)の会頭をしていた時に、利夫さんが副会頭を務めてくださった。その時は、利夫さんは社長ではなかったのですね。

田口
その頃は祖父の利八が社長で、父は専務でした。

牛尾
私が会頭を務めたのは一九六九年で、その翌年の会頭を利夫さんにお願いしようと思っていたのですが、「父親から、JCの会頭などおまえにはまだ早いと言われた」というわけです。それで結局、ほかの方が私の次に会頭になられて、その翌年にもう一度会頭を利夫さんにお願いしたら、今度は「牛尾さんのあとを継ぐ形ならお受けしたかったのですが、そうでないならお引き受けできません」と言って、断られたのですよ(笑)

田口
そういったやりとりがあったことは父から話を聞いています。その節はご迷惑をおかけしました(笑)。

牛尾
結局、それからしばらくして義嘉壽さんが会頭を務められたのでしたね。

田口
はい。一九七六年です。

牛尾
利八さんとも利夫さんともお付き合いをさせてもらいましたが、お二人ともとてもよく仕事をされる方でした。利八さんの弟さんの福太郎さんもよく働く方でしたね。

田口
福太郎は利八のサポート役として、副社長、副会長を務めていました。

牛尾
私が会頭を務めていた頃、利夫さんも含め、JCの仲間はみんな仲が良くて、家族ぐるみでよく旅行しましたね。

田口
鳥取JCとか秋田JCとか、いろいろなところから十何家族が集まって、毎年一回大人数で旅行しましたね。大人チームと子供チームに分かれてバスに乗って。私が子供の頃から成人しても続いていましたから、二十年ぐらいいろいろなところに行かせていただきました。それがもう毎年楽しみで。牛尾さんの息子さんの志朗さんは私の三つ上で、子供チームのリーダー的な存在でしたが、トランプにしてもいろいろな遊び方を知っていらっしゃって、都会の子は違うなと(笑)。大人チームはお酒を飲みながら、政治の話や経済の話などをされていて、そのやりとりを見て子供心にステキだなぁと思ったのを覚えています。なかでもやはり牛尾さんはリーダー的な存在でしたが、子供に対しても全く分け隔てなく接してくださって、すごいなぁと思っていました。

子供の頃は「ステキなカッコいいおじさま」という感じで見ていましたが、私が成人してからは、至らないところをきちんと諭していただいて。一九九八年に突然父が心筋梗塞で倒れて、六十六歳で亡くなりましたが、特にその後は父親代わりのように牛尾さんにいろいろとご指導いただいて、感謝しています。