茂木友三郎対談


早稲田大学時代に日本代表に選ばれ、古河電工入社後も選手として活躍、監督も務められた川淵三郎さん。
同社を退社後、〝豊かなスポーツ文化の振興〟を理念に「Jリーグ」を創設、今日の日本サッカー界隆盛の礎を築かれた。
日本サッカー協会(JFA)会長、首都大学東京理事長を歴任後、日本バスケットボール界の救世主として分裂していた二つのリーグを統合、「Bリーグ」創設へと導く。
現在は、日本トップリーグ連携機構会長、JFAの相談役を務められ、日本のスポーツ全体を良くしていくために尽力されている。

川淵 三郎(日本トップリーグ連携機構会長・日本サッカー協会相談役)
地域コミュニティでスポーツを楽しむ環境を整える

茂木
ようこそお越しくださいました。

川淵
お招きいただきまして、ありがとうございます。

茂木
川淵さんは大阪のお生まれなのですね。

川淵
高石市です。百人一首の『音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の 濡れもこそすれ』で知られる高師浜です。子どもの頃はよく海で泳いで遊んでいました。

茂木
小学生の頃に演劇をされていたそうですね。

川淵
児童文化研究家の吉岡たすく先生(一九一五~二〇〇〇)が、私が四年生の時に母校の高石小学校に赴任してこられて、五年生の時に先生が立ち上げられた演劇部に入りました。先生はNHKのラジオドラマの脚本も書かれていて、私も何度も出演させていただきました。おそらく百回以上出ていると思います。

ラジオドラマのために約一カ月間の稽古をするのですが、学校が終わったあと、吉岡先生のご自宅に行って二時間ぐらい台本の読み合わせをして、それからNHKに行って演出家と本読みをするんです。私が中学一年生の時に民間放送が立ち上がり収録の放送も始まったのですが、それまでNHKは全部生放送でした。今はマイクの集音能力が高いので周囲で少々しゃべっていても問題ありませんが、その頃のマイクの性能は今ほど良くなくてちょっとした音も入ってしまいますから、台詞を言っている人以外は音を立ててはいけないんです。それと、普段は大阪弁でしたから、標準語のアクセントには苦労しました(笑)。

茂木
それはいつ頃まで続けられたのですか。

川淵
高校二年生まで続けました。なぜやめたかというと、放送を聞いて自分の声にショックを受けたからなんです(笑)。

というのは、NHKは生放送でしたし、再放送されても学校に行っている間に放送されていたので、自分がしゃべっているのを聞いたことがなかったんです。ところが、高校二年のある日、サッカーの練習が終わって、出演しているラジオドラマが放送されるからみんなで一緒に聞こうということになった。それで、いつも部活動の帰りに寄るパン屋さんに十人ぐらいで行って、その時に生まれて初めて自分の声を聞いたわけです。その声があまりにもイメージしていたのと違っていて、「これが自分の声!?」とガッカリしまして、二度とやらないと決めました(笑)。

茂木
しかし、小学五年生から高校二年生まで、多感な時期に七年間演劇を続けられたというのは大きいですね。

川淵
振り返ると、その後の人生において演劇は大変プラスになりました。小さい時から吉岡先生に鍛えられたおかげで、対人間ということに関しては、人付き合いで困ることはなかったですし、人前でしゃべることに抵抗がないのです。それと、かつて東大阪市にあった毎日大阪会館や中之島にある大阪市中央公会堂などでも公演したりしていましたが、マイクなしで大声をあげて台詞をしゃべっていましたから、今でも私の声は大きくてよく通ると言われるのはそのおかげですよ(笑)。